隼人温泉という、ひなびた温泉がある。
日豊本線の隼人駅から、自動車で五、六分のところにある。
ひろびろとした田園に囲まれた田舎町の中の温泉で、眺めといっても別にとりたてるほどのものもない。
隼人温泉は、国立公園霧島への通過駅みたいなところにある。
霧島の方は、日本最初の国立公園であり、温泉の規模にしても、眺めにしても、知名度にしても、格がちがう。
旅人は、こんな田園のまん中に温泉町があるとも知らず、霧島へ、雰島へと向かうようである。
しかし、古い温泉なので近郷近在の者は、この隼人温泉に親しみを持っている。湯治場かというと、純粋にそうだとも言いきれない。
まあ、田舎田舎した温泉といえばよいだろうか。
ヂヂさまや、ババさまや、そうかと思うと村の顔ききが、一族郎党をひき連れて来て、隣の部屋に客がおろうとおるまいと糞くらえで、どんちゃん騒ぎをするような温泉場である。
どうも私は、人間が野蛮にできているのか、上品ぶった顔をした奴がいやになってしまう。威張りちらすなら、村の顔ききらしく、恥も外聞もなくむき出しに威張ってみたり、ヂヂさまやババさまの、ところかまわず大声で笑い散らしたりし、馬鹿さわぎするような者が出はいりすろ所の方が、それなりに、かえってサバサバして気楽だと思う。
家族たちと、私はよくこの温泉に出かけて行く。
もっとも、鹿児島市から汽車に乗れば四十分で着くし、家族連れで、ぞろぞろ出かけても安あがりということもあるので・・・・・。
隼人温泉の近くに、鹿児島神宮がある。この地方は姶良郡と呼ばれているが、十二世紀の頃は、この郡のほとんどが鹿児島神官の氏子であったというから、相当な権力を持った神官であったのであろう。
この神宮の、初午の祭りが面白い。
初午の日には、近郷近在から馬が集まってくる。
馬が集まるといっても、馬をひいてポカポカ歩き廻るのではない。
馬に、おどりを踊らせるのである。
馬が、前脚をトントン、トコ、トントンコとはねて、チャールストンに似たおどりを踊るのである。踊る馬は、お百姓さんたちが耕作に使う馬なのである。おどりをしこむのがたいへんだ。野良仕事をすませてから、毎晩、毎晩、家内中総がかりで、チャールストン風のおどりの稽古をさせるのである。これをしこむのに、一カ月も二カ月もかかるという。
馬おどりのすんだ後の馬は、田圃に連れだしても、田圃の真ん中で、耕作を放りだしてチャールストンをやりだすので、しばらくの間は使いものにならない。
馬おどりの馬には、大きな鈴が何個もつけられる。祭り用の、とっておきの金のクラには、ひとかかえもある豆太鼓がつけられる。
豆太鼓はぶっちがいに組んで、クラの両がわに高々と突きでるようにつけられる。
馬がチャールストンをやって、足を踏みならすたびに、金の鈴はシャリン、シヤリンと鳴りひびき、豆太鼓はポンカ、ポンカとのびやかな音をたてる。
この地方では、この豆太鼓のことをポンバチという。
ポンカ、ポンカと鳴るためであろうか。
馬の首のまわりの金の鈴も、豆太鼓も、遠く失われた、古い日本の村祭りの音をたてるのである。馬おどりの馬には、おともがつく。馬のおともは、人間たちである。一頭の馬のまわりに、十数人の善男善女がつく。おともたちは、馬のチャールストンに調子を合わせて三妹線太鼓でうたいまくり、馬とともに踊りまくるのである。こういう馬が、百頭、二百頭と、各村々から、神社にねりこんで来たのであった。
先頭の馬が朝方神社にねりこんでから、最後の馬がねりこむまでには、日の暮れ方までかかるものであった。
見物人も、また、押すな押すなで、小さな町にはみでるほど集まって来た。
南の春は早い。
極寒二月というのに、もう紫のスミレが咲き、陽あたりのよい田圃の土堤には、太陽のかけらのようなタンポポの花が開く。そういう田圃のあちらこちらから、村々の、チャールストンの馬と、おとものおどり手たちが次から次々と乗りこんで来るのである。土俗的なにおいのぷんぷんする、初午の祭りであった。
現在は、田畑をたがやす耕耘機ができ、馬より楽に使いこなせるし、化学肥料ができて、農家では馬の糞など肥料に使用しなくなった。
馬は、機械と化学に駆逐されて、鹿児島のようなはるかなる土地でも、馬の姿はほとんど見かけなくなってしまった。
それにしても、現在も、初午の日には七、八頭の馬がどこからかやって来て、わびわびと、馬おどりを奉納して行くという。
頑固に、伝統を守りつづけて、馬で排作をしている農家が山深い所にでも残っているのであろうか。
戦前までは、この神社の参道の両側にそば屋がずらりと並んでいた。
参道の両側はそば屋街というほど、どの家にもそばの看板が出ていた。
そば屋は、一升徳利にそばの汁を入れて、それを大きな釜で湯せんにしていた。そばを注文すると、一升徳利のはいっている釜の湯でぬくめ、一升徳利の汁をとくとくとそばのドンブリに入れるのであった。
参道の両側に並ぶそば屋は、どのそば屋もかけそばオンリーで、てんぷらそばも、ざるそばももりそばもなかった。
店の前に赤もうふを敷いた盤台が出してあって、それに腰かけて食べるのであった。徳川期か、明治期の、峠の茶屋を思わせる趣があった。
ほんとの手打ちそばで、どうしてどうして馬鹿にできない味であった。
あれは、昭和三十五、六年の頃であったかしら、隼人温泉に行ったとき、ふと、鹿児島神宮のそばを思い出し、久しぶりに食べてみたくなった。
行ってみて、驚いてしまった。あんなに軒を並べて並んでいたそば屋の、影も形もないのである。せっかく来たのだから、あちこち探したら一軒だけあった。
「手うちそば」と書いた、古びた看板がかかっていた。
「おお、まだ生き残っていたか」ほっとした気持でその店に入った。
まことに、さむざむとした店であった。テーブルが土間に三つばかり並んでいたが、ずいぶん長い間雑巾もかけてないとみえて、ほこりがうっすらと積もっていた。このところ客のよりついた形跡もないのである。
店の片隅には、古ぼけ自転車がおっぽりだしてあった。
「これは、えらい店に入りこんだわい」と、思ったが、店の様子があまりにも貧しいので、このまま食べずに飛びだすのも、何か気の毒なような気がした。
二、三回声をかけたが、無人の家のように、私の声だけがすすけた障子の向こうにつつ抜けていくだけだ。
外に出ようかなと思った頃、「はーい」という返事して、赤ん坊を抱いた若いおかみさんが顔をだした。赤ん妨はおかみさんの腕の中で眠っていた。赤ん坊を寝かせつけていたので、返事をしなかったのかも知れない。
「おそばできますか」と、たずねたら、「はい、できるにはできますが、少々時間がかかりますが、お待ちくださいますか」若いおかみさんは、たいそうていねいな挨拶をするのであった。
べつに忙しい用件があるのでないし、こういう店で食べてみるのも一興だと思ったので待つことにした。少しどころではない。三十分待っても、そばは出で来ない。一時間も待ったであおうか。かけそばを一つ、木の盆にのせて持って来た。
私は、若いおかみさんの顔を見上げて、思わずにっこりした。
すると、若いおかみさんはこちらの心の中を察したのか、こんなことを言うのであった。「機械に追われて、馬がいなくなるにつれて、馬おどりの馬も、数が年々へってゆきまして、それにつれて、お詣りに来る人の数もへり、このあたりのそば屋さんはみんな店を閉じたので、ございますが、うちの婆ちゃんがこのあたりで一番栄えた店だから、そばの看板おろすな。と申しますので、看板だけはかけておりますが、近頃ではそば食べに来るお客さまなんて、ほとんどございません。
それで、お客さまの顔を見て、一人分のそば打ちましたのでおそくなりまして・・・」
「おばあちゃん、元気ですか」
「はい、中風でねたきりでございます」
若いおかみさんは、聞きとれぬほどの小さな声で言うのであった。
私の顔を見てからうったそばということであったが、どうも手打ちのそばではなく、近くの食料品店から、急いで買って来た乾燥そばの味がした。
私はそばを食べ終わって、ここまで来たついでに神社にお詣りしてみようと思った。
かつては鹿児島の一の宮としての神社で、いつ訪ねてみても、本殿では誰かが祈願していて、お神楽の筝や太鼓の音が、大きな形の木立の境内に響きわたっていた。
今、訪ねてみると、そのあたりの境内はしーんと静まりかえって、小鳥の鳴き声さえ聞こえないのであった。境内も荒れ果てていた。
自然は、人間が足を踏みこむと、あっという間にみる影もないほど荒れてしまう。その反対に、人間の造ったものは、人間が近つかないとこれもまた、あっという間に荒れてしまう。おかしなものである。
私は、この神社の社務所で売っていた鳩笛、羽子板、土鈴、香箱、豆太鼓を思い出した。ここの土鈴は、好ましいものであった。
あの泥絵具をぬりたてた、けばけはしいものではなかった。
赤の土だけの、まじりけのない土そのものの色であった。かつての農民たちが、農閑期に夜なべしながらつくったもので、人肌のようにあったかい朱の色をしていた。
そういう鈴が、三つ、五つ、輪にしたワラにつないであった。
それを手に持って振ってみると、由舎乙女の、ふくみ笑いのような低い音をたてるのであった。豆太鼓も、なつかしいものであった。
竹を輪にまげて、その両側に和紙をはり、何の輪に白い木綿糸を通し、糸の先に、なま大豆がつけてあった。その太鼓の柄をぶるぶると振ると、大豆が太鼓の和紙にあたって、遠い日の、かすかな思い出のような、のびやかな音をたてた。
豆太鼓の和紙にかかれている絵も、愉しかった。安絵具をつかって、一筆がきの馬の絵が描いてあった。てらいも、気ばりもない、無心に、ぽいぽいと軽やかに描いてあった。
貧しい農民が、どうしてこのようにのびやかな絵が描けたのかと、不思議に思われるほど、
ほのぼのとした馬の絵であった。 こんなにさびれてしまったが、今も、社務所であの民芸品を売っているだろうかと、私は、社務所の方に歩いて行った。
よほどひまだったと見えて、神主が出て来て、
「上がってお茶でも飲んでいきなさい」と、言うのだ。
お茶を飲みながら、神主さんはこんなことを話してくれた。
「なにしろ、ただいまの神社は観光価値があるかどうかが、神社の盛衰でございましてね。観光バスが止まってくれないようなこの神社には、参詣する人も、ほとんどございませんのですよ。
政府からはお金はおりませんし、お賽銭はございませんし、一時は、それは苦労いたしました。ところが、世の中というものは、ようしたものでごぎいます。近ごろは、えらい民芸ブームで、
会員をつのっては民芸品を配布する会社ができたという話を聞きまして、この鹿児島神宮の民芸品は、以前は、民芸品では日本でも大関格のものであったということを、思い出したのでございます。
そこで、民芸品のミニ版をつくりまして、三品とか、五品一組にして、東京の民芸品をあつこう会社に、見本として送ってみたのです。これが、大あたりにあたってくれました。先方でも、この神社の民芸品のことは、よう知っていたのでございますね。会員に配る民芸品の中に入れてくれまして、今では、いくら造っても、つくっても、製造が間に合わぬほどでございます。おかげさまで・・・・
なかなか、頭のいい神主である。
それにしても、この神社の御主体よりも、神主さんの生活にとっては民芸品の方がありがたいのであった。
民芸品が、神社の救いの神であったのである。皮肉な話ある。
神社といえば、鹿児島と神社とは、深いかかあり合いがある。
明治初の廃仏毀釈の時、鹿児島人は、まったく文字どおりに受けとめた。
全県下の寺という寺は、一寺も残さず、ほんとに一寺も残さず、うちこわされ、焼き払われた。
もちろん、寺宝も仏像も焼かれてしまった。焼くことのできないものは、たたきこわされた。僧侶も追放された。
こうして県下の寺を亡ぼしてしまって、鹿児島では、士族が全員神徒となり、神への信仰の驚くべき熱狂ぶりを発揮した。
しかも、平民だけは神徒となることを許されず、仏教徒として残された。
平民は仏教徒、士族は神徒と決められたのである。
一体、誰がこのような掟を決めたのであろうか。
しかし、いずれにしても、全国まれにみる差別がつくられたのである。
鹿児島では、神徒であることが、一門の名誉であるのである。
鹿児島では、かつて農民三人が、一人の武士を養ったといわれるほど、武士の数が多かった。
だから鹿児島は、率からいうと、神徒の数は日本一といってもよいであろう。
ところが、熱狂的に神を信じた子孫たちが、鹿児島の一の官といわれた鹿児島神宮の神主さんをして、「ただ今の神社は、観光価値の有無が神社の運命を決すのでございます」と、歎かしているのである。
こういう現象は、一体、どこから生まれてきたのであろうか。
明治以来の日本の神社信仰というのは、為政者の政策としての、つくりあげられた信仰で、そういうことが現在の結果を生んだものなのであろうか。それにしても、あの廃仏毀釈のおりの、鹿児島の武士たちの、世界にも稀にみるほどの熱狂ぶりの根元をなすものは、一体なんなのであろうか。鹿児島県人も、まごうことなき日本人である。
だから、この根元を掘り下げてみることもまた、日本人の心を探る糸口になりはしないだろうか。
私は鹿児島神官の石段の上に立って、こんなことを考えるのであった。
まあ、それはそれとして、私は、時の流れのえたいも知れぬカを、
ひしひしと感じるのであった。
昭和二十年までは、神社は、押すな押すなの賑わいであったのである。
時の流れの中には、思想の大きな波も混然としてまじって、ともに、うねっているのであろうか。
意識するしないにかかわらず、時の中で、人は、思想の波にのみこまれて行くようでもある。
時流れは、一つの革命と同じように、変革の要素を、流れそのものの中にひそませているものなのだろうか。
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